2016年02月22日

催眠薬だけで


「次手《ついで》にNさん(姉の夫)の肖像画も売るか? しかしあれは……」
 僕はバラツクの壁にかけた、額縁のない一枚のコンテ画を見ると、迂濶《うくわつ》に常談も言はれないのを感じた。轢死《れきし》した彼は汽車の為に顔もすつかり肉塊になり、僅かに唯|口髭《くちひげ》だけ残つてゐたとか云ふことだつた。この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違ひなかつた。しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしてゐた。僕は光線の加減かと思ひ、この一枚のコンテ画をいろいろの位置から眺めるやうにした。
「何をしてゐるの?」
「何でもないよ。……唯あの肖像画は口のまはりだけ、……」
 姉はちよつと振り返りながら、何も気づかないやうに返事をした。
「髭だけ妙に薄いやうでせう。」
 僕の見たものは錯覚ではなかつた。しかし錯覚ではないとすれば、――僕は午飯《ひるめし》の世話にならないうちに姉の家を出ることにした。
「まあ、善《い》いでせう。」
「又あしたでも、……けふは青山まで出かけるのだから。」
「ああ、あすこ? まだ体の具合は悪いの?」
「やつぱり薬ばかり嚥《の》んでゐる。も大変だよ。ヴエロナアル、ノイロナアル、トリオナアル、ヌマアル……」
 三十分ばかりたつた後、僕は或ビルデイングへはひり、昇降機《リフト》に乗つて三階へのぼつた。それから或レストオランの硝子戸を押してはひらうとした。が、硝子戸は動かなかつた。のみならずそこには「定休日」と書いた漆《うるし》塗りの札も下つてゐた。僕は愈《いよいよ》不快になり、硝子戸の向うのテエブルの上に林檎《りんご》やバナナを盛つたのを見たまま、もう一度往来へ出ることにした。すると会社員らしい男が二人何か快活にしやべりながら、このビルデイングへはひる為に僕の肩をこすつて行つた。彼等の一人はその拍子に「イライラしてね」と言つたらしかつた。  


Posted by 似水流年 at 12:52Comments(0)